再びこの日が巡ってきた。改めて亡くなられた方へお悔やみを、被災された方々へお見舞いを申し上げます。
あれから3年。そうした報道が増えてくるこの時期、私までもが『あれから3年』のブログを書くことに大いに抵抗感がある。記念日だけが特別なのではなく、日々の暮らしの中で遅い復興がわずかずつ進んでいる。願っている程の速度では物事が進まない中、1,096回の夜と朝がきたのだ。
ただ、こういう日だからこそ、これまでを振り返り、この先を考えてみたい。
3年前、緊急事態から始まった支援は、日々の暮らしを支えることが中心だった。長期的な復興につながる形での緊急支援を旨としているJENでも、半年先の自立を支えるための活動に終始した感がある。心のケア、生業支援、コミュニティの結びつきを取り戻す支援などを進めてきた。その結果、人口が激減している地域でも、人が戻ってきたり、住む家がないから戻れないけれど通いで戻って来たり、という現象も見られる様になった。遅々とした歩みであっても、一歩ずつ前に進んできた人も多い。JENの支援先ではないが、津波で全てを流された後、再開したある工場を知っている。食品を生産し、全国に販売している。外野にいる私の目には相当うまくいっている様に見えるが、それでも被災前の7割だと嘆いている。嘆きつつ、せめて10割、そしてその先を目指して邁進する姿はとても頼もしい。
同時に、復興に取り残されている感じを強めている人が増えているのが気になる。仮設暮らしがいつまで続くのか、というより、いつになったら次の段階に進めるのか、見当もつかず、精神的な負担が増えている。将来の計画を立てられず、希望が持てなければ、落ち着いて復興にまい進することは簡単ではない。
そして日々、人口が減っている被災地域の街々、村々。放置すれば少しずつ人口が減り、村や町としての機能を失う日が来てしまう。その日の前に誰かが何かをしなければ、その日は確実に来る。自分には遠い話の様だが、本当にそうだろうか。東日本大震災直後に私たちが思い知らされた様に、私達の暮らしは遠い地域や国と、思いの外密接に結びついている。私自身も、福島第一の原発事故前には、東京に住む自分が使う電気が、福島から来ていることに気づいていなかった。この食品、あの部品や原料が日本中、世界中を回っている。今のような暮らしを続けたければ、遠い地域の村々の復興を支えることが理に叶っている。
復興は、被災された方々の問題ではなく、直接被災していない私たちにとって重大なことだ。復興を支援した結果、自分の暮らしが少しだけ不自由になるかもしれない。それでも今、知恵と技術を駆使して心を支え、復興を推し進めなければ、難しさが増すばかりだ。出来ることは少ない、などと言っている余裕はない。出来ることを探して、実行に移していく。それを一人ひとりが進めることで、被災地域の復興が進み、豊かになり、巡り巡って遠くに住む私たちや未来を担う子どもたちの暮らしも温かく豊かになる。
2014年3月11日
特定非営利活動法人ジェン
理事・事務局長 木山啓子
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