2011年4月20日水曜日

No.27 国際協力の現場から:混迷の現場




~ それでもビルド・バック・ベターからビルド・ア・ニュー・シティへ ~

大切な方を亡くされた方へ心からのお悔やみを、そして、大切な方にまだお会いになれずにいる方と被災された皆様へ心からのお見舞いを申し上げます。

大震災から一ヶ月が過ぎた。
被災者の皆さんは、この日をどんな思いで迎えられたのだろうか。家を流されるという壮絶な経験をした人が何を思うか、本当に経験しなければ想像することさえ難しい。ましてや家族を亡くされたり行方がわからない方々の気持ちをわかることなどあり得ない。せめて支援を急ぐことしか、私たちにはできない。

ただでさえ長い年月がかかる復興だが、一ヶ月が過ぎた今、反省と驚きをもって実感しているのは、今回の緊急支援の立ち上がりの遅さだ。海外の大災害の被災地でも、1ヶ月目では様々なものが届いていない。但し、予定されているものが全く違う。海外の大災害の現場では一ヶ月もすれば、例えば、どこに何人位の被災者がいて、どれ位のどんな食料をいつ誰がどうやって持ち込むか、その人びとが、今後どのような暮らしをするから何がどれ位必要か、を包括的に捉えて調整している状態になっている、と思う。それが調整会議で公表され、もしくは、その情報を提供する小さな機関が立ち上げられ、いつでも誰でも、そこに行けば(物理的にもウェブ上でも)最新情報を1週間遅れ位で手に入れることが出来るようになっている。しかし、今回は一ヶ月経った今でもこうした被災者数の把握すらおぼつかない。支援しようとする我々が手に入れられるのは、避難所のみの、年齢や背景もわからない男女の数のみで、個別ニーズに応えることが極めて難しい。通称『在宅避難者』にいたっては、その全体数すら確認できない。結果として、適切な支援が提供されにくくなる。

この状態は、民間の力を活用できていないことから起こっている。言うまでもなく、日本には様々な人材や組織がある。調査、情報の処理、輸送、ロジ、運営に長けている企業もあれば、我々のように、海外の巨大災害や紛争や貧困の支援の現場で、現地政府の支援をしながら活動してきたNGOもある。いくら優秀な職員が多数勤務している役所でも、自身が被災し、通常の数十倍の業務量を適切に処理することは無理だ。この国家的非常事態に活用できる民間の力は肉体労働を提供するボランティアだけではない。

そんな国際支援の現場で働いてきた目で見ると、今回の復興は一段と難しい。地震、津波の直接的被害が大きいのに加えて、地盤沈下、原発事故、と三重四重に被災したからだ。例えば漁業は、海に沈んだ瓦礫を全て撤去し、港を再建して船を手に入れるだけでは復活できない。水揚げしたものを保冷・冷蔵、加工、売買、輸送、と様々な会社が関わって初めて元通りの仕事が出来るが、そもそも地盤が80cm~1mも沈下していて、港の再建自体が難しいという。しかも、残念ながら大津波の再来は明らかで、再び犠牲者を出さないためには、人びとの安全を最優先して復興してゆかなければならない。

では、どの様に復興してゆくのか。避難所になっていた石巻の湊小学校に小さな例を見ることが出来るかもしれない。JENも避難所運営のサポートをした湊小学校は、今回の大地震の際、耐震工事が完了した直後だった。当初、「生徒数も年々減ってきているのに、なぜ、耐震工事をするのか?」と、懐疑的な意見もある中、工事は強行されたが地震には強かった。そして今、日々余震と津波の恐怖を抱えて暮らす人々の避難所として、不便ではあるが安心して避難生活を送ることができる場所となっている。このように、将来のために一段上の投資を考えることこそが、将来の「安心、安全」に繋がるのではないだろうか。海外支援の現場でよく言われている『ビルド・バック・ベター(以前より良い状態に復興すること)』だ。

ただ、より良い状態を追及することが本当に人びとの生活を再建できるのか、という大きな疑問が残る。これまでの延長線上にある考え方では、再び大きな災害が来た時に同じ悲しみを背負うことになってしまう。全く新しいコンセプトで町を作り直すことが、人びとに安心を与える。『ビルド・ア・ニュー・シティ』、新しい町を作る。人びとが安心・安全に暮らし、将来に希望を持てる。そんな町を石巻の人々が再建することを、ずっと支えて行きたいと願っている。そしてこれはもしかしたら、国際支援の現場で新しいコンセプトとして、定番となっていくかもしれない。

(写真:料理する人、薪の調達、火の見張り番など、各自ができることを、できる時にやっている。宮城県石巻市渡波(わたのは)地区の小さな避難所)

(ニュースレターNo45より転載)

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