2011年4月30日土曜日

緊急支援での適切な調整とは?

明日、と言っている間に3日経ってしまった...。

1994年の発足からJENが活動してきた世界各地の緊急支援の現場には、どこにも『調整会議』が存在した。それはもちろん、適切に調整しないと漏れやダブりが起こるからだ。特に大規模な災害や紛争で多数の被災者がいる場合、支援はいくらあっても足りない。

だから適切な調整は「やれればいいが、やらなくてもいい」という贅沢ではなく、現実的に死活問題なのだ。

極めて大雑把にいうと、どこの調整会議でも大体は
『全体像の把握⇒ニーズの確認⇒分担⇒足りていない部分の穴埋め』という実際の調整の部分と
『情報共有』と
『支援のばらつきの調整』という三つの部分がある。

全ての関係者が一堂に会して、どの地域の状況が厳しいか、それらの地域ではどのようなニーズがあって誰が何をやっているか、結果、どのニーズが満たされていないか、をまず確認する。確認しながら、どんどん支援を実施していく。当初は全体像がつかみきれないので、実施しているかたわら自分のいる地域での情報をなるべく多くつかみ、調整会議で共有する。他団体の報告を聞いて、まだカバーされていない地域と分野で、自分たちにカバーできそうなことがあれば、そちらにも出かけていき、調査をし、実施できそうなら即座に実施を始めて調整会議で報告する。

1週間から10日ほどすると、被害が大きい地域で交通の便が良かったり、特に報道で注目されている場所の役割分担が決まり、調整会議も軌道に乗って、足りない地域の足りない分野がわかってくるので、その部分をカバーしてくれる団体を探したりもする。

『情報共有』では、各団体の支援内容だけでなく、文化的背景の注意喚起であったり、治安や調達に関する情報であったり、様々に『より良い事業実施に有益な情報』が共有される。

『ばらつき防止』に関しては、支援によって被災者間に格差をもたらさないために、例えば配布物資の内容をある程度そろえたり、標準的な支援内容の確認をしたりする。

元々、緊急支援の現場で良く引き合いに出される『スフィア・スタンダード』というものがある。http://www.sphereproject.org/

これは、多くの人道支援団体が赤十字や赤新月社とともに1997年に作ったもので、被災者の生活の質が劣悪にならないために目安となる最低基準なのだ。この基準が万能ではないし、残念ながらこの基準が満たされないことも多い。が、仮設住宅を建てる際にもこれを念頭に計画を立てたりもする。調整会議に参加する人々は、この最低基準のことは当然頭に入っていて、各地の被災者の状況が、この基準に照らしてどうか、と考えたりもする。全体像を考える上でも、良い手掛かりになるものだ。

海外での緊急支援の現場では、こんな風に調整会議が進んでいく。

今回の東日本大震災の現場での調整会議に関しては、また明日。

2011年4月27日水曜日

余りに遅い支援の現場

改めて、東日本大震災で亡くなられた方とご家族にお悔やみと、被災された方々にお見舞いを申し上げます。

既にJENのウェブページでもご承知の通り、JENは最初仙台で、続いて石巻に拠点を移して被災者の方々への支援活動をしている。これからしばらくは、東日本大震災支援に関することを書きたいと思う。

海外の緊急支援をしてきた目で今回の支援の現場を見ると、驚きの連続だ。まず、支援があまりにも遅い。もちろん我々も支援の現場で活動する一員なのだから、自戒を込めてそう思う。発災から既に丸6週間経った今の石巻で、被災者が避難している学校の教室から体育館に移動させられていたり、いまだにボランティアが炊き出しをしている状況は、はっきり言ってあり得ない。

これは、決して政府批判でも行政批判でもない。行政の職員も地震が被災している中、涙ぐましい努力をしている。あんなに頑張っている人たちに『もっとやれ』というつもりはさらさらない。

でもなぜ、モノゴトが動かないのだろう。

まず一つは、被害の規模の大きさ。余りにも広範囲で余りにもひどい。街中のガレキが撤去されて、だいぶ改善が進んだが、人のいない地域つまり多数の犠牲が出た地域では、手つかずのままガレキが放置されている。


もう一つは、調整の不足。海外の現場では、この調整が相当機能していたのだ、ということが、今回良く判る。明日は調整について書きます。

2011年4月20日水曜日

No.27 国際協力の現場から:混迷の現場




~ それでもビルド・バック・ベターからビルド・ア・ニュー・シティへ ~

大切な方を亡くされた方へ心からのお悔やみを、そして、大切な方にまだお会いになれずにいる方と被災された皆様へ心からのお見舞いを申し上げます。

大震災から一ヶ月が過ぎた。
被災者の皆さんは、この日をどんな思いで迎えられたのだろうか。家を流されるという壮絶な経験をした人が何を思うか、本当に経験しなければ想像することさえ難しい。ましてや家族を亡くされたり行方がわからない方々の気持ちをわかることなどあり得ない。せめて支援を急ぐことしか、私たちにはできない。

ただでさえ長い年月がかかる復興だが、一ヶ月が過ぎた今、反省と驚きをもって実感しているのは、今回の緊急支援の立ち上がりの遅さだ。海外の大災害の被災地でも、1ヶ月目では様々なものが届いていない。但し、予定されているものが全く違う。海外の大災害の現場では一ヶ月もすれば、例えば、どこに何人位の被災者がいて、どれ位のどんな食料をいつ誰がどうやって持ち込むか、その人びとが、今後どのような暮らしをするから何がどれ位必要か、を包括的に捉えて調整している状態になっている、と思う。それが調整会議で公表され、もしくは、その情報を提供する小さな機関が立ち上げられ、いつでも誰でも、そこに行けば(物理的にもウェブ上でも)最新情報を1週間遅れ位で手に入れることが出来るようになっている。しかし、今回は一ヶ月経った今でもこうした被災者数の把握すらおぼつかない。支援しようとする我々が手に入れられるのは、避難所のみの、年齢や背景もわからない男女の数のみで、個別ニーズに応えることが極めて難しい。通称『在宅避難者』にいたっては、その全体数すら確認できない。結果として、適切な支援が提供されにくくなる。

この状態は、民間の力を活用できていないことから起こっている。言うまでもなく、日本には様々な人材や組織がある。調査、情報の処理、輸送、ロジ、運営に長けている企業もあれば、我々のように、海外の巨大災害や紛争や貧困の支援の現場で、現地政府の支援をしながら活動してきたNGOもある。いくら優秀な職員が多数勤務している役所でも、自身が被災し、通常の数十倍の業務量を適切に処理することは無理だ。この国家的非常事態に活用できる民間の力は肉体労働を提供するボランティアだけではない。

そんな国際支援の現場で働いてきた目で見ると、今回の復興は一段と難しい。地震、津波の直接的被害が大きいのに加えて、地盤沈下、原発事故、と三重四重に被災したからだ。例えば漁業は、海に沈んだ瓦礫を全て撤去し、港を再建して船を手に入れるだけでは復活できない。水揚げしたものを保冷・冷蔵、加工、売買、輸送、と様々な会社が関わって初めて元通りの仕事が出来るが、そもそも地盤が80cm~1mも沈下していて、港の再建自体が難しいという。しかも、残念ながら大津波の再来は明らかで、再び犠牲者を出さないためには、人びとの安全を最優先して復興してゆかなければならない。

では、どの様に復興してゆくのか。避難所になっていた石巻の湊小学校に小さな例を見ることが出来るかもしれない。JENも避難所運営のサポートをした湊小学校は、今回の大地震の際、耐震工事が完了した直後だった。当初、「生徒数も年々減ってきているのに、なぜ、耐震工事をするのか?」と、懐疑的な意見もある中、工事は強行されたが地震には強かった。そして今、日々余震と津波の恐怖を抱えて暮らす人々の避難所として、不便ではあるが安心して避難生活を送ることができる場所となっている。このように、将来のために一段上の投資を考えることこそが、将来の「安心、安全」に繋がるのではないだろうか。海外支援の現場でよく言われている『ビルド・バック・ベター(以前より良い状態に復興すること)』だ。

ただ、より良い状態を追及することが本当に人びとの生活を再建できるのか、という大きな疑問が残る。これまでの延長線上にある考え方では、再び大きな災害が来た時に同じ悲しみを背負うことになってしまう。全く新しいコンセプトで町を作り直すことが、人びとに安心を与える。『ビルド・ア・ニュー・シティ』、新しい町を作る。人びとが安心・安全に暮らし、将来に希望を持てる。そんな町を石巻の人々が再建することを、ずっと支えて行きたいと願っている。そしてこれはもしかしたら、国際支援の現場で新しいコンセプトとして、定番となっていくかもしれない。

(写真:料理する人、薪の調達、火の見張り番など、各自ができることを、できる時にやっている。宮城県石巻市渡波(わたのは)地区の小さな避難所)

(ニュースレターNo45より転載)

2011年4月7日木曜日

石巻の巻

昨日の早朝、石巻から戻った。
暗い高速を降りた途端、見慣れた地元の風景に出くわし、正直、面喰った。
東北では、あれほどの惨状が続いているのに、多少の節電はあるものの東京は全く元通りみたいだ。驚いたのは、道に泥もゴミもないこと。たった5時間離れた石巻では、今日も極端に不自由な暮らしを強いられたり、強烈な臭いの中、黙々と汚泥を撤去したり、厳しい寒さの避難所で凍えながら夜を過ごす人たちがいるのに、だ。


3月20日から4月4日まで、仙台と石巻を拠点に調査しながら支援してきた。石巻、東松島、南三陸、石巻の雄勝など、津波の被害の激しい場所を訪れるたびに打ちのめされる。毎日通う石巻市内各所も、行く度に辛い気持が募るけど、元より実際に被災された方々の辛さとは比べようもない。


一度に三人の子どもを全て亡くされた方や、流されていく家の屋根で助けを求める人の声が耳について離れない方や、姉と母を同時に亡くされた方や、たくさんの悲しみが心の中に隠されたまま被災地の日は明けて暮れる。


早く、被災された方々の状況を改善したい!焦る気持ちをあざ笑うかのように、毎日がゆっくりと流れる。仲間のボランティア達は、一つ一つの家の汚泥撤去をし、炊き出しをし、コミュニティを回っている。私たちも一歩ずつしか前に進めないから、一歩ずつ歩みを進める。


避難所の暮らしは厳しいけれど、物質的には『在宅避難者』より恵まれている。物資はとりあえず避難所から配布されるからだ。なぜこんなに、倉庫にモノが溢れているのに、必要とする人の手に届かないのか。ガソリンがないから、トラックがないから、人手がないから、情報がないから。言い訳は止めて支援を進めよう。次回は、支援物資が届くまでをリポートします。