2011年12月12日月曜日

クリスマスを前に、送迎会

メリークリスマス!ふたりとも、年が明けたら、新しい生活が待っています。インターンとして、サポーターとして、お疲れ様でした!

2011年12月9日金曜日

チャリティーママ義援金プロジェクトとChabo!石巻視察

漁師さんから、漁網の編み方を教わる勝間和代さん。お忙しい中、石巻訪問、どうもありがとうございました。「本で、もっと、世界にいいこと。」チャリティ・ブックプログラム、Chabo!については、こちらをご覧ください。

2011年10月20日木曜日

No.29国際協力の現場から:急がば地元主導




 日本で暮らしている人なら、日本が地震多発国であり、火山の噴火、風水害など大災害が起きる国であることを知っている。阪神淡路、中越、奥尻、中越沖などでの甚大な被害も記憶に新しい。それでも、日本がこれほどの支援の受け入れ国になると鮮明に意識していた人は少ないはずだ。9月14日時点で124の国・地域・機関が、175億円を超える寄付や物資を3.11の支援のために日本国に寄せてくれた 。因みにJENが現在も支援を継続しているアフガニスタン、イラク、スリランカ、スーダン、パキスタンなども支援国として名を連ねてくれている。日本も立派な『被援助国』となった訳だ。日頃の恩返しと喜んでばかりいるのではなく、この支援をいかに効果的に活かすかを考えて、今後のより良い支援のモデルとなるような取り組みがしたいものだ。実際、誇れない意味でガラパゴスと言われる『先進国日本』での支援も、支援という意味では極めて似通った問題をはらんでいる。

 一つは、復興支援の在り方だ。

 今回の被災地の中で、震災前から経済的に苦しんでいた地域は多い。その状態が構造的なものであるならば、その構造を変えない限り復興を進めても未来は明るくない。災害の前から駅前はシャッター通りと呼ばれ、郊外の大型店には人が集まるけれど街中のお店には活気がないが、個々の企業の涙ぐましい努力によって街が支えられている。そんな街では、日々の暮らしを支える緊急支援は確かに必要だが、長く続けすぎれば依存を生んで、問題は解決されず、却って元々地元にある底力を弱めてしまう。世界の復興の現場でも、根本的問題である構造の変革に取り組まない支援は、状況を悪くしている。構造に取り組むことは簡単ではないが、独創的な解決方法を生み出し、実施して効果を上げ、モデルとなることができれば、世界の復興支援の質の向上にも貢献できるはずだ。

 もう一つは、その取り組みの在り方だ。独創的な解決方法は、現場を熟知することで初めて可能となる。なぜならば、成功のカギとなるのは、継続的に関わる人々の熱意と人手と資源だからだ。資源は必ずしも資金ではないが、現場を熟知しているにも拘らず被災された方々は、自分たちの持っている資源(宝物)に気づいていない場合も多い。悲しみと喪失感と生活苦と将来への不安が、被災前より更に、宝物の存在を見えづらくさせている。そこで『よそ者』である我々支援団体との関わりなどを通して宝物の再発見をすることになるのだが、自ら気づかない限り、宝物も有効活用しづらいのだ。既に言い古された感すらある『地元主導』を辛抱強く推し進めるという取り組み方が明るい未来を約束する。こんな当たり前と思えることを進めることは、現実には易しくない。急いで生活再建を進めないと、復興の担い手である地元の人々が流出してしまうからだ。辛抱強く自立支援を急ぐ日々が、現場では続いている。

(写真:輪になって座って、お茶を飲む。ただそれだけで会話が弾む。)

(ニュースレターNo47より転載)

2011年8月1日月曜日

平成23年度 外務大臣表彰受賞

JENは平成23年度外務大臣表彰を受賞しました。




外務大臣表彰は日本と諸外国との友好親善に著しく寄与した個人と団体を外務大臣が表彰するもので、今年度は、個人68名、30団体が受賞しました。

7月28日に外務省飯倉公館で表彰式が開かれました。

今回の受賞は、JENが設立以来17年以上にわたって日本を代表する国際協力NGOとして
諸外国における国際協力の促進に貢献してきたことが評価されました。

JEN理事・事務局一同、外務大臣表彰の受賞を励みに今後の活動を展開していきたいと思います。

以下のリンクにて、JENがこれまで世界各国でおこなってきました自然災害における活動をご紹介しています。

くわしくは、こちらをクリック


2011年7月5日火曜日

No.28 国際協力の現場から:意外と地道な緊急支援(支援の遅さについて)




東日本震災支援のための日本赤十字社(以下日赤)への義捐金は、とうとう2,500億円を超えた。236万件というから単純に日本の人口で割ると18%の人が募金をしたことになる。JENにも、1万893件の募金や物資のご寄付や労働力としてのご支援、そして助成が寄せられ、地震発生直後から多くの支援活動を実施させて頂くことができた。本当に有難いかぎりだ。

その義捐金が中々配布されないという批判を耳にするが、早く配れるための方策は単純だ。具体的な配布は市区町村の役場が行っているので、既に200%頑張っている役場のサポートを効果的に行えばよいのだ。ただし、日本中の役場から被災地の役場へのサポートは既に可能な限り実施されている。つまり、被災地の役場のニーズにまったく届いていないというのが現状だ。

東日本大震災の支援活動を行っている人々も団体も、みな一様に人財不足で苦しんでいる。多数のボランティアが現地に行ってはいても、長期間滞在しなければ、作業でない部分の仕事は担ってもらいにくい。作業を実行する人手としてのボランティアの存在も大切だが、仕事の仕切りができてある程度長期間現地に張り付くことのできる人財が圧倒的に足りていない。役場の場合は、個人情報や現金を扱う仕事に長期ボランティアを従事させられないという考えもあるのだろうが、支援が迅速に進み、且つこうした治安対策もできる、という方向を考えることが重要だ。

われわれNGOの現場での仕事も同様に、一つ一つの仕事を丁寧、且つ迅速に行うことが求められている。JENが石巻で実施している仮設住宅への生活必需品搬入事業を例にとってみよう。

まず、調達だ。迅速且つ効率的に大量の物資を調達するには、大量発注に応じてくれる業者さんに頼むのが一番早く、コストも安い。一方、かなりの量の物資は全国の善意の市民から市区町村の物資倉庫へと送られて放置されている。これを活かして無駄を省く努力をすると、購入代金も多少減るだろう。だが、これを活かすためには誰かが仕分けをしなければならないが、量も多く種類もばらばらで実際に仕分けして見なければ、活かせるものがどれ位あるのかもわからない状態だ。

JENでは、被災者の方々をアルバイトとして雇い、仕分けをしていただくことで日当を稼ぎ出してもらうことにした。膨大な量の仕分け作業を被災者の方のための『収入創出事業』に変えたのだ。

仮設住宅に生活必需品を搬入する事業を実施している、と言うと一軒当たりいくらかかるのかをよく訊かれる。実際には、仮設に入れる抽選に当たった人の家族構成によって一軒あたりの費用が当然変わってくる。家族の人数によって、そろえる数を変更する物資もあれば、何人家族でも入れなければならない物資もあるので、柔軟に対応する必要がある。その上、仕分けた支援物資をどれほど入れられるかがわからないので、購入費は大きく幅があるのだ。

搬入作業も、業者さんに依頼して、各戸に人数分を入れてもらう形にすれば楽なのだが、きめ細やかにすることで、被災者の方の収入にもなり、物資を寄付した方の善意も報われ、倉庫が一杯で苦しんでいる役場のお手伝いにもなる。

そして、生活必需品を搬入する際、入居される被災者の方へのささやかなメッセージを残している。見ず知らずの人々と軒を接して住まなければならなくなった人々が、温かく仮設住宅に迎え入れられたと感じてもらえるように。

急いで、しかし丁寧に。究極の選択が連続する現場は、東北でもまだ始まったばかり。復興までは、まだこれから気の遠くなる様な長い時間がかかる。

(写真:ボランティアの手により、側溝から泥を除去する作業が急ピッチで進む)

(ニュースレターNo46より転載)

2011年6月22日水曜日

支援者の集い


6月18日、支援者の集いを開きました。

昨年、JENをご支援くださった皆様、東日本大震災をご支援くださっている皆様160名近くがお集まりくださいました。

この日は、JENの新しいロゴもお披露目させていただきました。

2011年6月21日火曜日

緊急支援での適切な調整とは? その2

前回のブログからはや、ひと月半、経ってしまった。にもかかわらず、「調整」の状況は変わっていない。

今回の東日本大震災の支援状況に関して、ずっと考えていたこと、それは、このフィールド(活動地)での支援活動が、どうしてこんなに時間がかかるのか、復旧復興の進み方が遅いのか、ということだ。

JENは、1994年以来、海外各国で紛争・災害の緊急支援に出動してきた。世界で緊急事態が起こると、(緊急)支援は、こんな風に進められている。

1.





被災地での調整は、分野別に行われる。

被災国全体では、必ず分野別にとらえるし、被災した地域でも同様に分野別に捉える。逆にそうしないと、漏れやダブりが出てしまう。


2.






支援に携わる“関係者全員”が一堂に会して漏れやダブりをならしていく作業をするのが、現地での『調整会議』だ。

関係者全員とは、現地政府、国連機関、NGO、各国政府などだ。様々な関係者が提供できる物やサービスを調整会議で伝え、足りない部分を埋めてゆく。

日本で『調整』というと、“根回し”みたいに受け止める方がいるようだが、緊急支援の調整は、決して根回しではない。プロ同士の連携であり、緊急時に効果を発揮する。携わる誰もが最重要とみなす必要不可欠な業務だ。こうして、貴重な物資やサービスを提供できる組織が、全体像を見渡して互いにサポートしあいながら、効果的に支援を提供する。これが緊急時に求められるプロの存在と、それがもたらすスピードだ。




3.




東日本大震災の場合は、更にすごい。通常、支援に加わっていない民間の企業も主体的に参加し、支援をしているのだから、こんな強みを活かない方がおかしい。だから、これを有効活用するために、この図の右側のような全体での調整をすることが望ましい。



4.






今回の東日本大震災の現状はこうだ。「公」と分類される国、県、市町など行政のそれぞれのレベルに災害対策本部が設置されている。おそらく、それぞれの災害対策本部が、分野別の目配りや資源の配分をやっているのだろう。

一方、これとは別のとりくみとして、社会福祉協議会が『監督』している「民」の活動、ボランティア活動がある。

驚くべき現実はというと、世界中の様々な巨大災害で緊急支援に携わってきた経験を持つNGOたちは、「民間」だから、という理由で、この『ボランティア』と位置づけられていることだ。

刻一刻と状況が変わる緊急時に、みなされ方などはどうでも構わない。ここで問題なのは、それぞれの場所で行われている『調整』が、互いに分野別に別々に行われているために、支援の全体像が見えにくくなっていることだ。




5.



結果的に全体の支援が遅くなっている。

これをどうやって解決していったらよいのか、次回考えてゆく。

2011年5月17日火曜日

未曾有の災害の意味すること

東日本大震災とそれに伴う津波、原発事故、
この3重苦は未曾有の災害だとよく言われる。

「いまだかつてない」ことが未曾有ならば、
その結果起きてしまったことは、もちろん未曾有。

であれば、その対処法も未曾有でなければならない。
つまり、『これまで通り』の対処法では、
未曾有の災害に適切な対処ができないということだ。

我々NGO職員も、企業人も、学者も、役人も、政治家も、
メディアの人も、大人も子どもも、みんなでこれまでと違うことをやろう。

震災から2か月経った。被災者の皆さんだけでなく支援をする人々も、
みんな頑張り抜いてきて、既にくたくただ。
でも、疲れたからと言ってその手を休める状況には全くない。

なぜかというと、余りに大きな『未曾有の』災害だったからだ。
みんな、自分の常識の範囲内で全力を尽くしてきたのではないだろうか。

努力が足りないんじゃない。災害が大き過ぎるのだ。
被災者の皆さんが置かれている環境は、あまりにひどい。それが現実だ。
だから、このままのやり方でみんなが頑張り続けても、時間がかかるだけだ。
今からでも遅くない。ほんとうは遅いけど、今始めなければもっと遅くなってしまう。
今始めないより、遅くても今始めることが大切だ。

一人ひとりが自分に『非常事態宣言』を出して、自分の常識を打ち破る行動を起こそう。
これまで2か月の間、日本国政府が『非常事態宣言』を出すのを期待していたけれど、
もう待っている時間は残っていない。

一人ひとりが自分の常識を超えて、被災者のためにベストなことは何かを考えて、行動しよう。
被災者の状況を変えるのは、一人ひとりの場所での行動だ。

2011年4月30日土曜日

緊急支援での適切な調整とは?

明日、と言っている間に3日経ってしまった...。

1994年の発足からJENが活動してきた世界各地の緊急支援の現場には、どこにも『調整会議』が存在した。それはもちろん、適切に調整しないと漏れやダブりが起こるからだ。特に大規模な災害や紛争で多数の被災者がいる場合、支援はいくらあっても足りない。

だから適切な調整は「やれればいいが、やらなくてもいい」という贅沢ではなく、現実的に死活問題なのだ。

極めて大雑把にいうと、どこの調整会議でも大体は
『全体像の把握⇒ニーズの確認⇒分担⇒足りていない部分の穴埋め』という実際の調整の部分と
『情報共有』と
『支援のばらつきの調整』という三つの部分がある。

全ての関係者が一堂に会して、どの地域の状況が厳しいか、それらの地域ではどのようなニーズがあって誰が何をやっているか、結果、どのニーズが満たされていないか、をまず確認する。確認しながら、どんどん支援を実施していく。当初は全体像がつかみきれないので、実施しているかたわら自分のいる地域での情報をなるべく多くつかみ、調整会議で共有する。他団体の報告を聞いて、まだカバーされていない地域と分野で、自分たちにカバーできそうなことがあれば、そちらにも出かけていき、調査をし、実施できそうなら即座に実施を始めて調整会議で報告する。

1週間から10日ほどすると、被害が大きい地域で交通の便が良かったり、特に報道で注目されている場所の役割分担が決まり、調整会議も軌道に乗って、足りない地域の足りない分野がわかってくるので、その部分をカバーしてくれる団体を探したりもする。

『情報共有』では、各団体の支援内容だけでなく、文化的背景の注意喚起であったり、治安や調達に関する情報であったり、様々に『より良い事業実施に有益な情報』が共有される。

『ばらつき防止』に関しては、支援によって被災者間に格差をもたらさないために、例えば配布物資の内容をある程度そろえたり、標準的な支援内容の確認をしたりする。

元々、緊急支援の現場で良く引き合いに出される『スフィア・スタンダード』というものがある。http://www.sphereproject.org/

これは、多くの人道支援団体が赤十字や赤新月社とともに1997年に作ったもので、被災者の生活の質が劣悪にならないために目安となる最低基準なのだ。この基準が万能ではないし、残念ながらこの基準が満たされないことも多い。が、仮設住宅を建てる際にもこれを念頭に計画を立てたりもする。調整会議に参加する人々は、この最低基準のことは当然頭に入っていて、各地の被災者の状況が、この基準に照らしてどうか、と考えたりもする。全体像を考える上でも、良い手掛かりになるものだ。

海外での緊急支援の現場では、こんな風に調整会議が進んでいく。

今回の東日本大震災の現場での調整会議に関しては、また明日。

2011年4月27日水曜日

余りに遅い支援の現場

改めて、東日本大震災で亡くなられた方とご家族にお悔やみと、被災された方々にお見舞いを申し上げます。

既にJENのウェブページでもご承知の通り、JENは最初仙台で、続いて石巻に拠点を移して被災者の方々への支援活動をしている。これからしばらくは、東日本大震災支援に関することを書きたいと思う。

海外の緊急支援をしてきた目で今回の支援の現場を見ると、驚きの連続だ。まず、支援があまりにも遅い。もちろん我々も支援の現場で活動する一員なのだから、自戒を込めてそう思う。発災から既に丸6週間経った今の石巻で、被災者が避難している学校の教室から体育館に移動させられていたり、いまだにボランティアが炊き出しをしている状況は、はっきり言ってあり得ない。

これは、決して政府批判でも行政批判でもない。行政の職員も地震が被災している中、涙ぐましい努力をしている。あんなに頑張っている人たちに『もっとやれ』というつもりはさらさらない。

でもなぜ、モノゴトが動かないのだろう。

まず一つは、被害の規模の大きさ。余りにも広範囲で余りにもひどい。街中のガレキが撤去されて、だいぶ改善が進んだが、人のいない地域つまり多数の犠牲が出た地域では、手つかずのままガレキが放置されている。


もう一つは、調整の不足。海外の現場では、この調整が相当機能していたのだ、ということが、今回良く判る。明日は調整について書きます。

2011年4月20日水曜日

No.27 国際協力の現場から:混迷の現場




~ それでもビルド・バック・ベターからビルド・ア・ニュー・シティへ ~

大切な方を亡くされた方へ心からのお悔やみを、そして、大切な方にまだお会いになれずにいる方と被災された皆様へ心からのお見舞いを申し上げます。

大震災から一ヶ月が過ぎた。
被災者の皆さんは、この日をどんな思いで迎えられたのだろうか。家を流されるという壮絶な経験をした人が何を思うか、本当に経験しなければ想像することさえ難しい。ましてや家族を亡くされたり行方がわからない方々の気持ちをわかることなどあり得ない。せめて支援を急ぐことしか、私たちにはできない。

ただでさえ長い年月がかかる復興だが、一ヶ月が過ぎた今、反省と驚きをもって実感しているのは、今回の緊急支援の立ち上がりの遅さだ。海外の大災害の被災地でも、1ヶ月目では様々なものが届いていない。但し、予定されているものが全く違う。海外の大災害の現場では一ヶ月もすれば、例えば、どこに何人位の被災者がいて、どれ位のどんな食料をいつ誰がどうやって持ち込むか、その人びとが、今後どのような暮らしをするから何がどれ位必要か、を包括的に捉えて調整している状態になっている、と思う。それが調整会議で公表され、もしくは、その情報を提供する小さな機関が立ち上げられ、いつでも誰でも、そこに行けば(物理的にもウェブ上でも)最新情報を1週間遅れ位で手に入れることが出来るようになっている。しかし、今回は一ヶ月経った今でもこうした被災者数の把握すらおぼつかない。支援しようとする我々が手に入れられるのは、避難所のみの、年齢や背景もわからない男女の数のみで、個別ニーズに応えることが極めて難しい。通称『在宅避難者』にいたっては、その全体数すら確認できない。結果として、適切な支援が提供されにくくなる。

この状態は、民間の力を活用できていないことから起こっている。言うまでもなく、日本には様々な人材や組織がある。調査、情報の処理、輸送、ロジ、運営に長けている企業もあれば、我々のように、海外の巨大災害や紛争や貧困の支援の現場で、現地政府の支援をしながら活動してきたNGOもある。いくら優秀な職員が多数勤務している役所でも、自身が被災し、通常の数十倍の業務量を適切に処理することは無理だ。この国家的非常事態に活用できる民間の力は肉体労働を提供するボランティアだけではない。

そんな国際支援の現場で働いてきた目で見ると、今回の復興は一段と難しい。地震、津波の直接的被害が大きいのに加えて、地盤沈下、原発事故、と三重四重に被災したからだ。例えば漁業は、海に沈んだ瓦礫を全て撤去し、港を再建して船を手に入れるだけでは復活できない。水揚げしたものを保冷・冷蔵、加工、売買、輸送、と様々な会社が関わって初めて元通りの仕事が出来るが、そもそも地盤が80cm~1mも沈下していて、港の再建自体が難しいという。しかも、残念ながら大津波の再来は明らかで、再び犠牲者を出さないためには、人びとの安全を最優先して復興してゆかなければならない。

では、どの様に復興してゆくのか。避難所になっていた石巻の湊小学校に小さな例を見ることが出来るかもしれない。JENも避難所運営のサポートをした湊小学校は、今回の大地震の際、耐震工事が完了した直後だった。当初、「生徒数も年々減ってきているのに、なぜ、耐震工事をするのか?」と、懐疑的な意見もある中、工事は強行されたが地震には強かった。そして今、日々余震と津波の恐怖を抱えて暮らす人々の避難所として、不便ではあるが安心して避難生活を送ることができる場所となっている。このように、将来のために一段上の投資を考えることこそが、将来の「安心、安全」に繋がるのではないだろうか。海外支援の現場でよく言われている『ビルド・バック・ベター(以前より良い状態に復興すること)』だ。

ただ、より良い状態を追及することが本当に人びとの生活を再建できるのか、という大きな疑問が残る。これまでの延長線上にある考え方では、再び大きな災害が来た時に同じ悲しみを背負うことになってしまう。全く新しいコンセプトで町を作り直すことが、人びとに安心を与える。『ビルド・ア・ニュー・シティ』、新しい町を作る。人びとが安心・安全に暮らし、将来に希望を持てる。そんな町を石巻の人々が再建することを、ずっと支えて行きたいと願っている。そしてこれはもしかしたら、国際支援の現場で新しいコンセプトとして、定番となっていくかもしれない。

(写真:料理する人、薪の調達、火の見張り番など、各自ができることを、できる時にやっている。宮城県石巻市渡波(わたのは)地区の小さな避難所)

(ニュースレターNo45より転載)

2011年4月7日木曜日

石巻の巻

昨日の早朝、石巻から戻った。
暗い高速を降りた途端、見慣れた地元の風景に出くわし、正直、面喰った。
東北では、あれほどの惨状が続いているのに、多少の節電はあるものの東京は全く元通りみたいだ。驚いたのは、道に泥もゴミもないこと。たった5時間離れた石巻では、今日も極端に不自由な暮らしを強いられたり、強烈な臭いの中、黙々と汚泥を撤去したり、厳しい寒さの避難所で凍えながら夜を過ごす人たちがいるのに、だ。


3月20日から4月4日まで、仙台と石巻を拠点に調査しながら支援してきた。石巻、東松島、南三陸、石巻の雄勝など、津波の被害の激しい場所を訪れるたびに打ちのめされる。毎日通う石巻市内各所も、行く度に辛い気持が募るけど、元より実際に被災された方々の辛さとは比べようもない。


一度に三人の子どもを全て亡くされた方や、流されていく家の屋根で助けを求める人の声が耳について離れない方や、姉と母を同時に亡くされた方や、たくさんの悲しみが心の中に隠されたまま被災地の日は明けて暮れる。


早く、被災された方々の状況を改善したい!焦る気持ちをあざ笑うかのように、毎日がゆっくりと流れる。仲間のボランティア達は、一つ一つの家の汚泥撤去をし、炊き出しをし、コミュニティを回っている。私たちも一歩ずつしか前に進めないから、一歩ずつ歩みを進める。


避難所の暮らしは厳しいけれど、物質的には『在宅避難者』より恵まれている。物資はとりあえず避難所から配布されるからだ。なぜこんなに、倉庫にモノが溢れているのに、必要とする人の手に届かないのか。ガソリンがないから、トラックがないから、人手がないから、情報がないから。言い訳は止めて支援を進めよう。次回は、支援物資が届くまでをリポートします。

2011年2月7日月曜日

ヒーローはどこにいる?


先週、FさんがJENを卒業していった。


2年と8カ月、本部とスーダンで職員として活躍してくれた。以前は、JENのサポーターとして前の事務所で手伝ってくれたり、彼の留学前にはインターンとして働いてくれた。



一番苦しかったのは、絶対的に人手不足だった時だと、勤務終了間際の面談で彼は言った。もう、これ以上できない、次の事業は申請しないで、規模を縮小した方がいいと思ったそうだ。どうしてそうしなかったかを聞くと、帰還してきた難民の方々にとっても、JENにとっても、規模を縮小しない方がいいと思ったから、との答え。つまり彼は、その身を削って帰還民のために働いたとも言える。



補充要員の採用通知を出しても辞退者が続出して補充できなかったのは、まったくもって採用を担当する私たちの不徳の致すところだ。Fさんのような自己犠牲は、もちろん全く奨励しないし、これを本部の私たちが『美徳』と言ってしまったら、とんでもないことになる。むしろ彼が要望しなくても、規模縮小を含む、様々な取り組みができたはずだ。



ただ、私の不徳は一旦わきに置いて、その時点での彼の選択は、ヒーロー的だと言いたい。厳しい状況の中で、自分が大変になることを判っていて、敢えて彼が最優先したのは、帰還民の利益だった。これがヒーロー的でなくて何なのか。



そうか、ヒーロー(ヒロイン)とは自分よりも他者の利益を優先する人のことか。それなら、同僚たちは全員ヒーロー(ヒロイン)だ。僻地に住む被災者のためにひと足もふた足も延ばして、急峻な山肌を歩いて調整に赴いたり、高額な物資をつかまされそうになっても走り回ってこれを防ぎ少しでも多くの人をサポートする。事務仕事でも、急ぎでない自分の仕事を後回しにして、忙しい同僚に手を貸したりと、身の回りのヒーロー的な行為をあげれば本当にキリがない。


一人ひとりがヒーロー(ヒロイン)の気持ちを持ちながら、実際には、ヒーロー的な行為をしなくて済む(殺人的に忙しい状態にならない)そんな職場にしてゆくのが、私の務めなんだね、Fさん、ご苦労様でした。

2011年1月17日月曜日

No.26国際協力の現場から:マヨネーズのように支援する





 ハイチの事業を始めた当初、周囲からは有償でないとハイチの人は協力しないと言われていた。事実、あの手この手でボランティアを募るも一向に集まらず、人々の気を惹くだろうカメラや日当を配ったりして人を集めている団体もあったらしい。そこまでしてやっと70名集まった、などと聞くことが多かった。JENは自立支援なので、コミュニティのために地元の人が活動することに対価を与えることは不適当と考え無償にこだわった。


 ふたを開けてみると、募集予定数360名に対して459名ものボランティアが無償で参加してくれた。それも、ただの人数ではなく、本当に活発に参加して、起伏の激しい土地を徒歩で回り、衛生の知識を伝えて歩く熱心なボランティアだということを、現地を訪問した際に、この目で確認した。なぜ、これ程多くの人が集まったのか。そして、どうしてこれ程熱心に活動に参加するのか。


 現地で働くJENの職員に聞いてみると、様々な工夫を凝らしていたことがわかった。まず、緊急支援の段階から、真面目に一軒ずつ家を訪れ、地震で本当に家が破壊されているのは、どの家庭かを確認した。ここで誰に対しても公平に活動する団体という信頼を得たらしい。


 衛生促進キャンペーンの事業を始めるに当っては、村を束ねる行政区の中心地で漠然とボランティアの参加を呼び掛けるのではなく、文字通り村を一つずつ訪問して、各村から6名ずつボランティアになって欲しいと訴えたという。直接訴えられれば心が動くのが人情か、多くの村から、4~6人が無償で衛生促進員になってくれた。


 衛生促進員が無償ボランティアだと知っている村人は、はじめは揶揄したという。それでもみんなが促進員を辞めなかったのは、衛生促進に対する好奇心なのか、他の理由があったのかは、判らない。ただ、促進員が伝える知識が村人の役に立ち、そのために促進員たちが尊敬を受けるなどという考えは、全く村人の意識になかったことは確かだ。そんな中で、心から促進員を受け入れて、彼らの言うことを実行し、それが村人の健康状態を改善して、促進員の村での社会的地位を上げてゆくことにつながるように、JENの職員は根気強く関わっていったのだ。急ぎ過ぎれば抵抗感を持たれてしまい、何をやっても難しくなる。少しずつ、急がずに根気強く関わり続けた。


 こんなに成功したのはなぜ?問いかける私に、フランス出身の職員が「マヨネーズみたいにやったんだよ」と答えた。マヨネーズは卵の黄身とお酢と油を混ぜて作るが、油を本当に少しずつ加えないと分離してしまう。一度分離したらその材料からは、二度とマヨネーズはできない。かといって余りに少量だと、時間がかかってらちがあかない。限度ぎりぎりまでの量を少しずつ入れて混ぜ続けると、えも言われぬ美味となる。根気強く、急がず、しかし大胆に少しずつ。マヨネーズを作るみたいな地道な努力が、今日も各地で続いている。