ラベル 国際協力の現場から の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 国際協力の現場から の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年5月2日水曜日

No.31国際協力の現場から:一歩の大きさ




 JENの東北支援は石巻市を中心に実施している。たった一つの市なので、とても小さな地域に限定しているように思われるかもしれないが、どうしてこれが、宮城県第二の都市。だが、本当に驚くのは、その多様さだ。海、丘、山林、平地と多様な地形に、多様な産業が展開し、被災状況も多様だ。その一部に牡鹿半島がある。石巻市全体の人口からみれば、約30分の1であるのだが、牡鹿半島にある33の浜は、それぞれに個性豊かな浜となっている。

 状況が多様であれば、復興も多様にならざるを得ない。各浜にあるコミュニティの意思を尊重し、そこにある資源を活かして復興の計画を立てていかなければ、復興が進んでも人々は幸せと感じられないだろう。同時に、現実的に考えれば、石巻の30分の1でさえ33通りの取り組みが必要だと仮定したら、東北全体では、気の遠くなる様な数の取り組みをしなければならなくなる。そんなことが本当に可能なのか、と思いそうな時、アメリカの大学生たちから声をかけられた。

 アメリカに留学していた一人の学生が、ある日、東日本大震災の被災者支援をしたいと考えた。イベントをしようという彼の話に賛同した友人が、これを企画書にまとめてニューヨークに遊びに行った。同じ頃、別の大学でも一人の留学生が、東日本支援のためにTシャツを販売した利益を寄付することを思いつく。彼もこれを企画書にまとめて、たまたまニューヨークに遊びに行った。この二人が友人を介してニューヨークで知り合い、企画書の交換をしたところからイベントが本格化した。結局、12の大学を巻き込んでTシャツを販売し、5つの大学で講演会を実施する、という大イベントに発展したのだという。この講演者の一人として招かれたので、行かせてもらって驚いた。どの大学でも推進する学生が皆とても熱心で、聴衆も真剣そのものだったからだ。4泊7日で5か所で講演するという強行軍だったが、皆さんの熱さにずっと感動し続けていた。彼らは、我々が帰国してからもTシャツを販売し続け、寄付額を増大させ続けている。

 初めは一人のアイデアが、周りをどんどん巻き込んで新しいことを起こしていく。これは、支援の現場でも同じだ。千里の道も一歩から。一人の力は小さいけれど、みんなの力はとてつもなく大きい。どんなことだって起こせるだろう。ただ、みんなの力は、最初はどこにも存在しない。一人の力がみんなの力を作っていくのだ。自分が最初の一人であるかどうかも、問題ではない。同じ目的を持った人たちとは、必ず出会えるからだ。一歩を踏み出し、語り、巻き込む。その繰り返しが大きなうねりとなり、世界を変えていく。一人が一歩を踏み出した時、既に世界は少しだけ変わっている。



(写真:池谷・入山集落の村人たちが訪れた幾つかのコミュニティ。
温かい湯気とおいしそうなご飯のにおいが立ち込める中、
人びとは、おにぎり片手に石巻の復興について熱く語り合いました。)

(ニュースレターNo.49より転載)

2012年1月31日火曜日

No.30国際協力の現場から:ボランティアは今、何をすればいい?

 今回の東日本大震災では、日本人の助け合いの精神が外国から大いに評価された。日本中から被災地に物資が届き、ボランティアも駆け付けた。我々NGOは、緊急事態があれば出動するのがいわば仕事なので、駆けつけて当然だが、まだ雪のちらつく中、テントと食糧だけでなく飲み水まで持参して、長期間無償奉仕を続けるボランティア達の献身は、あっぱれというほかない。共に現地で支援に従事する我々でさえ、彼らの姿に勇気づけられたのだから、家を流され、家族の行方を案じている人々にとっては、どれほどの励ましになったことだろう。




 極寒の被災当初のみでなく、春、夏、秋と、彼らは活躍を続けている。その原動力は厳しい現実に立ち向かう被災地の方々の笑顔だろう。二階の床まで浸水し、厚さ25cmの汚泥がまんべんなく入りこんだ自宅の片づけは、ボランティアなしではとても無理だった。被災された方々がありがとうと微笑む時、ボランティアの顔が輝く。誰かの役に立つことが、限りない喜びとなり、続けたいと思うのではないだろうか。



 実はそこに、これからの支援のヒントがある。誰かの役に立つことで、人が生きる意味を再発見できるならば、それこそがまさに被災された方々が求めていることではないか。家族、財産、友人、仕事、思い出の場所、描いてきた未来、ありとあらゆるものを失った方々こそ、再び命を輝かせることを必要としている。



 だから、これからのボランティアは被災された方々の世話になろう。



 大震災の前まで東北から無意識にもらっていたものがたくさんある。あなたが作った牡蠣を、ワカメを、あなたが加工した漬け魚を、早く食べたいと言おう。民宿に泊まり、現地のごはんが美味しかったと伝えよう。現地で作れるもので、私たちが本当に必要としているもの、それを探し出して要望しよう。「してあげる」でなく「してもらう」それがこれからのボランティアであってほしい。
 その為には現地に行き、私たちが日々必要としているもので被災地にあるものは何かを確認する必要がある。繁く足を運び、現地の方々と話し合い、よそに住む自分の問題の解決を要望しよう。彼らには、その力がある。そういう声に背中を押されて彼らは底力を発揮する。極限的な状態にある時、人は自分のためには頑張れないが、自分以外の誰かのためになら頑張れる。有難うといわれる気持良さを手渡して、被災された方々の底力を引き出す努力を我々ができるかどうかが試されている。




(写真:数ヶ月前までは面識がなかったご近所さんも、今は、同じ思いを共有する良き仲間)



(ニュースレターNo48より転載)

2011年10月20日木曜日

No.29国際協力の現場から:急がば地元主導




 日本で暮らしている人なら、日本が地震多発国であり、火山の噴火、風水害など大災害が起きる国であることを知っている。阪神淡路、中越、奥尻、中越沖などでの甚大な被害も記憶に新しい。それでも、日本がこれほどの支援の受け入れ国になると鮮明に意識していた人は少ないはずだ。9月14日時点で124の国・地域・機関が、175億円を超える寄付や物資を3.11の支援のために日本国に寄せてくれた 。因みにJENが現在も支援を継続しているアフガニスタン、イラク、スリランカ、スーダン、パキスタンなども支援国として名を連ねてくれている。日本も立派な『被援助国』となった訳だ。日頃の恩返しと喜んでばかりいるのではなく、この支援をいかに効果的に活かすかを考えて、今後のより良い支援のモデルとなるような取り組みがしたいものだ。実際、誇れない意味でガラパゴスと言われる『先進国日本』での支援も、支援という意味では極めて似通った問題をはらんでいる。

 一つは、復興支援の在り方だ。

 今回の被災地の中で、震災前から経済的に苦しんでいた地域は多い。その状態が構造的なものであるならば、その構造を変えない限り復興を進めても未来は明るくない。災害の前から駅前はシャッター通りと呼ばれ、郊外の大型店には人が集まるけれど街中のお店には活気がないが、個々の企業の涙ぐましい努力によって街が支えられている。そんな街では、日々の暮らしを支える緊急支援は確かに必要だが、長く続けすぎれば依存を生んで、問題は解決されず、却って元々地元にある底力を弱めてしまう。世界の復興の現場でも、根本的問題である構造の変革に取り組まない支援は、状況を悪くしている。構造に取り組むことは簡単ではないが、独創的な解決方法を生み出し、実施して効果を上げ、モデルとなることができれば、世界の復興支援の質の向上にも貢献できるはずだ。

 もう一つは、その取り組みの在り方だ。独創的な解決方法は、現場を熟知することで初めて可能となる。なぜならば、成功のカギとなるのは、継続的に関わる人々の熱意と人手と資源だからだ。資源は必ずしも資金ではないが、現場を熟知しているにも拘らず被災された方々は、自分たちの持っている資源(宝物)に気づいていない場合も多い。悲しみと喪失感と生活苦と将来への不安が、被災前より更に、宝物の存在を見えづらくさせている。そこで『よそ者』である我々支援団体との関わりなどを通して宝物の再発見をすることになるのだが、自ら気づかない限り、宝物も有効活用しづらいのだ。既に言い古された感すらある『地元主導』を辛抱強く推し進めるという取り組み方が明るい未来を約束する。こんな当たり前と思えることを進めることは、現実には易しくない。急いで生活再建を進めないと、復興の担い手である地元の人々が流出してしまうからだ。辛抱強く自立支援を急ぐ日々が、現場では続いている。

(写真:輪になって座って、お茶を飲む。ただそれだけで会話が弾む。)

(ニュースレターNo47より転載)

2011年7月5日火曜日

No.28 国際協力の現場から:意外と地道な緊急支援(支援の遅さについて)




東日本震災支援のための日本赤十字社(以下日赤)への義捐金は、とうとう2,500億円を超えた。236万件というから単純に日本の人口で割ると18%の人が募金をしたことになる。JENにも、1万893件の募金や物資のご寄付や労働力としてのご支援、そして助成が寄せられ、地震発生直後から多くの支援活動を実施させて頂くことができた。本当に有難いかぎりだ。

その義捐金が中々配布されないという批判を耳にするが、早く配れるための方策は単純だ。具体的な配布は市区町村の役場が行っているので、既に200%頑張っている役場のサポートを効果的に行えばよいのだ。ただし、日本中の役場から被災地の役場へのサポートは既に可能な限り実施されている。つまり、被災地の役場のニーズにまったく届いていないというのが現状だ。

東日本大震災の支援活動を行っている人々も団体も、みな一様に人財不足で苦しんでいる。多数のボランティアが現地に行ってはいても、長期間滞在しなければ、作業でない部分の仕事は担ってもらいにくい。作業を実行する人手としてのボランティアの存在も大切だが、仕事の仕切りができてある程度長期間現地に張り付くことのできる人財が圧倒的に足りていない。役場の場合は、個人情報や現金を扱う仕事に長期ボランティアを従事させられないという考えもあるのだろうが、支援が迅速に進み、且つこうした治安対策もできる、という方向を考えることが重要だ。

われわれNGOの現場での仕事も同様に、一つ一つの仕事を丁寧、且つ迅速に行うことが求められている。JENが石巻で実施している仮設住宅への生活必需品搬入事業を例にとってみよう。

まず、調達だ。迅速且つ効率的に大量の物資を調達するには、大量発注に応じてくれる業者さんに頼むのが一番早く、コストも安い。一方、かなりの量の物資は全国の善意の市民から市区町村の物資倉庫へと送られて放置されている。これを活かして無駄を省く努力をすると、購入代金も多少減るだろう。だが、これを活かすためには誰かが仕分けをしなければならないが、量も多く種類もばらばらで実際に仕分けして見なければ、活かせるものがどれ位あるのかもわからない状態だ。

JENでは、被災者の方々をアルバイトとして雇い、仕分けをしていただくことで日当を稼ぎ出してもらうことにした。膨大な量の仕分け作業を被災者の方のための『収入創出事業』に変えたのだ。

仮設住宅に生活必需品を搬入する事業を実施している、と言うと一軒当たりいくらかかるのかをよく訊かれる。実際には、仮設に入れる抽選に当たった人の家族構成によって一軒あたりの費用が当然変わってくる。家族の人数によって、そろえる数を変更する物資もあれば、何人家族でも入れなければならない物資もあるので、柔軟に対応する必要がある。その上、仕分けた支援物資をどれほど入れられるかがわからないので、購入費は大きく幅があるのだ。

搬入作業も、業者さんに依頼して、各戸に人数分を入れてもらう形にすれば楽なのだが、きめ細やかにすることで、被災者の方の収入にもなり、物資を寄付した方の善意も報われ、倉庫が一杯で苦しんでいる役場のお手伝いにもなる。

そして、生活必需品を搬入する際、入居される被災者の方へのささやかなメッセージを残している。見ず知らずの人々と軒を接して住まなければならなくなった人々が、温かく仮設住宅に迎え入れられたと感じてもらえるように。

急いで、しかし丁寧に。究極の選択が連続する現場は、東北でもまだ始まったばかり。復興までは、まだこれから気の遠くなる様な長い時間がかかる。

(写真:ボランティアの手により、側溝から泥を除去する作業が急ピッチで進む)

(ニュースレターNo46より転載)

2011年4月20日水曜日

No.27 国際協力の現場から:混迷の現場




~ それでもビルド・バック・ベターからビルド・ア・ニュー・シティへ ~

大切な方を亡くされた方へ心からのお悔やみを、そして、大切な方にまだお会いになれずにいる方と被災された皆様へ心からのお見舞いを申し上げます。

大震災から一ヶ月が過ぎた。
被災者の皆さんは、この日をどんな思いで迎えられたのだろうか。家を流されるという壮絶な経験をした人が何を思うか、本当に経験しなければ想像することさえ難しい。ましてや家族を亡くされたり行方がわからない方々の気持ちをわかることなどあり得ない。せめて支援を急ぐことしか、私たちにはできない。

ただでさえ長い年月がかかる復興だが、一ヶ月が過ぎた今、反省と驚きをもって実感しているのは、今回の緊急支援の立ち上がりの遅さだ。海外の大災害の被災地でも、1ヶ月目では様々なものが届いていない。但し、予定されているものが全く違う。海外の大災害の現場では一ヶ月もすれば、例えば、どこに何人位の被災者がいて、どれ位のどんな食料をいつ誰がどうやって持ち込むか、その人びとが、今後どのような暮らしをするから何がどれ位必要か、を包括的に捉えて調整している状態になっている、と思う。それが調整会議で公表され、もしくは、その情報を提供する小さな機関が立ち上げられ、いつでも誰でも、そこに行けば(物理的にもウェブ上でも)最新情報を1週間遅れ位で手に入れることが出来るようになっている。しかし、今回は一ヶ月経った今でもこうした被災者数の把握すらおぼつかない。支援しようとする我々が手に入れられるのは、避難所のみの、年齢や背景もわからない男女の数のみで、個別ニーズに応えることが極めて難しい。通称『在宅避難者』にいたっては、その全体数すら確認できない。結果として、適切な支援が提供されにくくなる。

この状態は、民間の力を活用できていないことから起こっている。言うまでもなく、日本には様々な人材や組織がある。調査、情報の処理、輸送、ロジ、運営に長けている企業もあれば、我々のように、海外の巨大災害や紛争や貧困の支援の現場で、現地政府の支援をしながら活動してきたNGOもある。いくら優秀な職員が多数勤務している役所でも、自身が被災し、通常の数十倍の業務量を適切に処理することは無理だ。この国家的非常事態に活用できる民間の力は肉体労働を提供するボランティアだけではない。

そんな国際支援の現場で働いてきた目で見ると、今回の復興は一段と難しい。地震、津波の直接的被害が大きいのに加えて、地盤沈下、原発事故、と三重四重に被災したからだ。例えば漁業は、海に沈んだ瓦礫を全て撤去し、港を再建して船を手に入れるだけでは復活できない。水揚げしたものを保冷・冷蔵、加工、売買、輸送、と様々な会社が関わって初めて元通りの仕事が出来るが、そもそも地盤が80cm~1mも沈下していて、港の再建自体が難しいという。しかも、残念ながら大津波の再来は明らかで、再び犠牲者を出さないためには、人びとの安全を最優先して復興してゆかなければならない。

では、どの様に復興してゆくのか。避難所になっていた石巻の湊小学校に小さな例を見ることが出来るかもしれない。JENも避難所運営のサポートをした湊小学校は、今回の大地震の際、耐震工事が完了した直後だった。当初、「生徒数も年々減ってきているのに、なぜ、耐震工事をするのか?」と、懐疑的な意見もある中、工事は強行されたが地震には強かった。そして今、日々余震と津波の恐怖を抱えて暮らす人々の避難所として、不便ではあるが安心して避難生活を送ることができる場所となっている。このように、将来のために一段上の投資を考えることこそが、将来の「安心、安全」に繋がるのではないだろうか。海外支援の現場でよく言われている『ビルド・バック・ベター(以前より良い状態に復興すること)』だ。

ただ、より良い状態を追及することが本当に人びとの生活を再建できるのか、という大きな疑問が残る。これまでの延長線上にある考え方では、再び大きな災害が来た時に同じ悲しみを背負うことになってしまう。全く新しいコンセプトで町を作り直すことが、人びとに安心を与える。『ビルド・ア・ニュー・シティ』、新しい町を作る。人びとが安心・安全に暮らし、将来に希望を持てる。そんな町を石巻の人々が再建することを、ずっと支えて行きたいと願っている。そしてこれはもしかしたら、国際支援の現場で新しいコンセプトとして、定番となっていくかもしれない。

(写真:料理する人、薪の調達、火の見張り番など、各自ができることを、できる時にやっている。宮城県石巻市渡波(わたのは)地区の小さな避難所)

(ニュースレターNo45より転載)

2011年1月17日月曜日

No.26国際協力の現場から:マヨネーズのように支援する





 ハイチの事業を始めた当初、周囲からは有償でないとハイチの人は協力しないと言われていた。事実、あの手この手でボランティアを募るも一向に集まらず、人々の気を惹くだろうカメラや日当を配ったりして人を集めている団体もあったらしい。そこまでしてやっと70名集まった、などと聞くことが多かった。JENは自立支援なので、コミュニティのために地元の人が活動することに対価を与えることは不適当と考え無償にこだわった。


 ふたを開けてみると、募集予定数360名に対して459名ものボランティアが無償で参加してくれた。それも、ただの人数ではなく、本当に活発に参加して、起伏の激しい土地を徒歩で回り、衛生の知識を伝えて歩く熱心なボランティアだということを、現地を訪問した際に、この目で確認した。なぜ、これ程多くの人が集まったのか。そして、どうしてこれ程熱心に活動に参加するのか。


 現地で働くJENの職員に聞いてみると、様々な工夫を凝らしていたことがわかった。まず、緊急支援の段階から、真面目に一軒ずつ家を訪れ、地震で本当に家が破壊されているのは、どの家庭かを確認した。ここで誰に対しても公平に活動する団体という信頼を得たらしい。


 衛生促進キャンペーンの事業を始めるに当っては、村を束ねる行政区の中心地で漠然とボランティアの参加を呼び掛けるのではなく、文字通り村を一つずつ訪問して、各村から6名ずつボランティアになって欲しいと訴えたという。直接訴えられれば心が動くのが人情か、多くの村から、4~6人が無償で衛生促進員になってくれた。


 衛生促進員が無償ボランティアだと知っている村人は、はじめは揶揄したという。それでもみんなが促進員を辞めなかったのは、衛生促進に対する好奇心なのか、他の理由があったのかは、判らない。ただ、促進員が伝える知識が村人の役に立ち、そのために促進員たちが尊敬を受けるなどという考えは、全く村人の意識になかったことは確かだ。そんな中で、心から促進員を受け入れて、彼らの言うことを実行し、それが村人の健康状態を改善して、促進員の村での社会的地位を上げてゆくことにつながるように、JENの職員は根気強く関わっていったのだ。急ぎ過ぎれば抵抗感を持たれてしまい、何をやっても難しくなる。少しずつ、急がずに根気強く関わり続けた。


 こんなに成功したのはなぜ?問いかける私に、フランス出身の職員が「マヨネーズみたいにやったんだよ」と答えた。マヨネーズは卵の黄身とお酢と油を混ぜて作るが、油を本当に少しずつ加えないと分離してしまう。一度分離したらその材料からは、二度とマヨネーズはできない。かといって余りに少量だと、時間がかかってらちがあかない。限度ぎりぎりまでの量を少しずつ入れて混ぜ続けると、えも言われぬ美味となる。根気強く、急がず、しかし大胆に少しずつ。マヨネーズを作るみたいな地道な努力が、今日も各地で続いている。

2010年12月20日月曜日

本を書きました。『誰かのためなら人はがんばれる -国際自立支援の現場でみつけた生き方-』







(以下、JENの公式HPより) 特定非営利活動法人ジェン理事・事務局長、木山啓子による初の著書。旧ユーゴスラビア、イラクやアフガニスタン、スリランカで、厳しい状況に置かれた現地の人びとが、少しずつ力を取り戻していく様子を、何度も目の当たりにしてきました。そして、いったい何が人を支えているのか、教わりました。

「自立こそ、幸せの鍵である!」

JENの16年間の活動の中で、紛争・災害で厳しい状況にある人びとから教わった「幸せの鍵」を、皆さまにご紹介します。
2010年12月20日発売
木山啓子著 かんき出版発行
定価(本体1400円+税、送料別)

JENでも販売しています。

---------------------
 

2010年11月20日土曜日

No.25 国際協力の現場から : 人財が支える自立支援


 パキスタンでのJENの事業は過去9年間で5件に上る。『自立支援』なのになぜ、終わった後に始まるのか。持続可能な自立支援であれば、一たび終了すれば次の支援は不要となるはずではないのか。

 理由は単純だ。効果の広がる速度が極端に遅いからだ。適切な自立支援の後には、自立への道を再び歩み始めた人々とコミュニティがある。だが、周囲の状況が悪ければ、その遅々とした自立への歩みも後戻りすることさえある。周辺地域に効果が広がってゆくと楽観的に考えたとしても、気の遠くなるほど長い時間がかかる。

 元々、自立支援というもの自体が促進剤ではある。人が生まれながらにして持つ自立する力は、本来であれば、極端な貧困の中にあっても発揮される。支援の手など差し伸べられなくても人々は暮らしを向上させてゆくが、現状では、世界の仕組みがそれを難しくしている。厳しい暮らしに追い打ちをかける紛争や災害は、その歩みを更に鈍化させる。そんな状況でも自立する力が速やかに発揮されるように、サポートするのが自立支援だ。

 自立支援の効果の伝播の速度が遅ければ、様々な地域で支援のニーズがあることになる。例えばJENの支援地であったカシミール州(A.J.K)のバーグから今回の洪水支援の事業地であるハイバル・パフトゥン・ハー州(K.P.K)のチャルサダまでは約200km。日本でいえば、直線距離で東京から長野にあたる。バーグからバロチスタン州のジアラットに至っては約3,000km、北海道と沖縄ほど離れた場所にある。広いパキスタンのあちこちで大きな災害があれば、各地での支援がそれぞれ必要であるのは自明と言えるだろう。悲観論でも何でもなく、一つの地域で実施した自立支援の効果が他の地域に与える影響は、残念ながら現状ではあまり大きくない。

 だが、重要な影響を与えるものがある。地域を越えて移動できる人財だ。今回の洪水での緊急出動にも、カシミール地震支援で活躍してくれた現地職員が、現在就いている別の職を休んで駆けつけてくれた。既にJENの目指すものや仕事のやり方を判ってくれている職員は、到着したその日から活躍できる。緊急事態に遭って支援を待つ被災者の強い味方だ。文字通り叱咤激励しながら、被災の悲しみから立ち上がる人々を支えることができる。重要なのは、その職員が更に周りの職員や被災者を勇気づけ、次の『強い味方』を育成してゆくことだ。今回の洪水被災者緊急支援も、一定の期間を経て終了する。その後に残る人々が地域や国の財産となるような支援を続けたい。


(写真:がれきを取り除く工具を受け取る、洪水被災者。パキスタン・チャルサダ県にて)

(ニュースレターNo43より転載)

2010年9月2日木曜日

No24: 国際協力の現場から: 忘れない、という支援の形



 援助疲労という言葉を聞いたことがあるだろうか。1990年代半ば頃、世界中の人々の注目を集めるような悲惨な出来事が世界各地で頻発した際、援助する国々が、度重なる資金拠出に悲鳴を上げ、これ以上援助するのが難しいという事態が起きたことがある。その時に語られた『Donor fatigue』の直訳だ。新しい緊急事態だけでなく、中々終わらない援助活動に対する資金拠出も長期にわたり、負担であったことは事実だろう。それにしても、援助する方だって大変だ、そうそうあてにしてもらっては困る、そんな気分が伝わってくる言葉だった。援助が必要となるような悲惨な出来事が起きたことに対しての責任のかけらも感じられない言葉だと思ったものだった。

 一方、『中々終わらない』といわれる支援事業は、実は、驚くべき速度で進んでいる。従事するスタッフたちは、寝る間も惜しむようにして働いている。ただ、支援ニーズは余りに大きく、配布物も中々行き渡らない。まるで、スポイトで水を一滴ずつたらすことでドラム缶を一杯にしようとしているようなもどかしさだ。そして、配られた物資は、その質も量も元の暮らしには程遠い。紛争や災害の被災地では、全てが必要だ。JENの支援で簡易住居を建てるためのトタン板を受け取っても、暮らしを始めることは出来ず、食料も衣料も医療も教育も必要なのは言うまでもない。それ以上に、仕事を始めないことには何も始まらないが、経済が大打撃を被っている現地では仕事も少ない。その状態からの復興なのだから、長い時間と辛抱強い支援が必要となってくる。

 長くかかるからこそ、紛争や災害が各地で頻発すれば、同時並行で二ヶ所も三ヶ所も支援が必要となり、援助に疲労したという感覚を持つこともあるかもしれない。特に、厳しい現実に立ち向かって日々努力する被災者の素顔を知らなければ、尚更だ。しかし、『援助依存』が取りざたされる被災地でも、無償で配布に協力してくれる現地の方はいる。温かく、しなやかで力強い彼らは、ただ支援を待っているだけの弱い人々ではない。状況が余りに厳しすぎて、再び立ち上がるきっかけをつかめずにいるだけなのだ。

 厳しい状況の中で一筋の光をつかみ、もう一度自分の足ですっくと立ち上がったとき、彼らの顔が誇りと喜びで輝く。その輝きを支えるのは、忘れずに長く支える一人一人の気持ちと行動だ。

(写真:夏暑く、真冬になると極寒のテント教室で、学習を余議なくされている子どもたち。アフガニスタン、パルワン州チャリカ、ハザド・キール小学校)

(ニュースレターNo42より転載)

2010年4月20日火曜日

No.23 国際協力の現場から:最高の瞬間とは?



 海外駐在しているJENのスタッフには、年に一度公費で帰国する機会が与えられる。これは単なる休暇ではなく、日頃ご支援下さる方々へのご報告をはじめ、本部での報告や人事面談、健康診断の受診、そして個人的な用事を済ませたりなど、かなり盛りだくさんなものだ。勿論、久しぶりに家族や友人に会って、ホッとすることも重要な『一時帰国』の要素の一つだ。

 こんな一時帰国のスタッフが、ここのところ立て続けに何人も本部に来てくれた。一年ぶりに再会するスタッフは、みんな一まわりも二まわりも成長していてまぶしいくらいだ。ものごとが予定通りに進むことなど皆無である支援の現場で、冷静に、時には熱くなって問題を一つ一つ解決し、支援活動を進めてきた。それぞれ、何かをやり遂げた充実感と自信が漲っている。

 ときには、疲れ果てた様子で帰ってくるスタッフもいる。荷が重過ぎる困難に果敢に立ち向かったから疲れてしまうのだ。そんなスタッフに、この1年間で最高の瞬間はどんな時だった?ときいてみる。すると、購入した資材の搬入が遅れて…とか、住民が協力してくれなくて…とか、役所の許可がおりなくて…などと辛そうに苦労話が始まる。

 文化も習慣も気候も実施している事業も、それぞれ全く違うはずなのに、意外にも殆どのスタッフの答えは同じだ。“最高の瞬間は、苦しい状況を乗り越えたとき”。でも、それには条件がある。単に乗り越えただけでは最高の瞬間にはならないのだ。困難に直面した時に現地スタッフや被災者たちと力を合わせ、気持ちを一つにして、助け合って乗り越える。困難が大きいほど気持ちが一つになる。力を合わせて大きな何かを乗り越えた時、最高の瞬間が訪れる。一人ひとりが、その感動のエピソードを聞かせてくれる。感謝と喜び、達成感に目を輝かせながら。

 人を支えるのも、励ますのも、苦しめるのも、人だ。絆があって人は前に進める。その絆に感謝する時、私たちの命が輝く。

(写真:ハイチ・グラン・ゴアーブにて。家は半壊してしまったけれど、シェルターキットさえあれば、あとはなんとかなる、と答えてくれた女性)

(ニュースレター No.41より転載)

2010年1月20日水曜日

No.22 国際協力の現場から:現地スタッフ能力発揮プロジェクト、始動!



 新年を迎えても、おめでとうと言えない位、各地の治安が悪化している。JENが支援事業を展開しているのは現在8ヶ所。治安や制度の制限を全く受けず、国際スタッフがいつでも自由に事業実施地まで行けるのは、なんと新潟だけだ。アフガニスタン、パキスタン、イラク、スーダン、スリランカ、ミャンマー、インドネシアの7カ国では、それぞれの理由で行動の制約を受けている。

 これまでは、地元の人と車座になって座っていつまでも話し合いを続けたり、地元の人が食べるものをご馳走になったり、じっとしていられない様な寒さの中、到着するトラックを地元の人と共に何時間も待ち続けたり、といったことを通して、言葉だけでは伝わらないものを国際スタッフも五感で感じながら事業を実施してきた。そういうやり方で被災者の状況や課題を深く理解するからこそ、彼ら自身が課題を解決してゆくことを支え、促し、見守ってこられたと思う。これからは、これを現地スタッフに担ってもらうしかない。

 そもそも、なぜ現地スタッフでなく国際スタッフがこれを担ってきたのか。様々な理由があるが、最も大きいのは『よそ者』としての関わりの大切さだ。現地の常識を覆す様な提案を、現地スタッフがすれば、地元の人々に取り合ってもらえないことがある。現状を変えられないと思い込んでいる地元の人々の中にあって、よそ者である国際スタッフたちは、より抵抗感少なく、現状を変えられることを伝え、変えようとする人々を勇気付けることができた。よそ者だからこそ取り組める課題がある場合もある。現地の常識を理解しながらも敢えて非常識な提案をよそ者がすることで、被災者の課題解決能力がより活性化されるのだ。

 事業地に国際スタッフが行けないという制約のために、このよそ者の役割をも現地スタッフにやってもらわなければならなくなってきた。よそ者でない彼らは、我々国際スタッフなら簡単に乗り越えられた『常識の壁』に激突しなければならない。それをも乗り越える潜在能力を彼らは元々持っている。その潜在能力が最大限に発揮できるようにサポートするプロジェクトをJENは2010年、開始する。これまでの『単なる能力強化』ではない。真の地元のリーダーを育成できるリーダーが育つことをサポートするのだ。厳しい状況だからこそ、JENの事業も進化しなければならない。新しい年の始まりとともに、JENの事業も新しい方向に、大きく舵を切った。

(写真:インドネシア・スマトラ島、パダン市郊外の学校にて。地震についてを学ぶ児童。ワークショップでは、教室でメカニズムを学び、実地の非難訓練を行います)

(ニュースレターNo.40より転載)

2009年10月20日火曜日

No.21 国際協力の現場から:効果は続く



 8月下旬、スリランカに出張して感動したことが二つある。

 一つは、現地スタッフの活躍ぶり、もう一つは完了した事業の効果が持続していたことだ。
『現地主導』も『持続可能な支援』も、昨今は当たり前のこと。良い支援の必要条件ではあるが、実現するのは簡単ではない。大いに成功している好事例を確認できて嬉しかった。

 2年前に東部での農業支援を始めた際には、土地の人びとが
「砂地なのでうまく行かない」
と口々に言ったそうだ。それを、南部での経験を経て東部へ転勤したスタッフが、説得してくれた。
「南部も同じ砂地だが、成功した」
しかも彼は、東部のJENスタッフに丁寧に説明し、スタッフ全員が心から成功を信じるようになった。成功を信じているスタッフと触れ合う内に、帰還した避難民も、努力が無駄にならないことを納得して農業を始めたという。始めてみればぐんぐん効果が上がる。私が会った帰還民は、みな農業の拡大計画を口々に語った。

 その後だったこともあり、完了から3年も経つ南部の事業を視察に行くのは期待と不安が交錯するものだった。何と言っても農業だ。気候の影響を受けて失敗していても不思議ない。

 行ってみて驚いた。どの家でも、バナナやヤシやその他の野菜が所狭しと生い茂っている。その成長ぶりからも、下草のなさからも、手入れのよさが良く判る。ある女性は、ぶどうの苗を庭いっぱいに育てて、ビジネスを始めていた。『絵に描いたような』自立をみんな果たしていた。

 世界各地で災害が多発している。支援はいつも行き届かず、支援団体全体の力不足を感じざるを得ない。問題を一つずつ解決してゆくしかないことは周知だが、今この瞬間にも厳しい状況にある人々の苦悩を思うとき、もっと早く、もっと多くの支援を提供したいと単純に思う。

 ただ、ことが起こってからの対処には限界がある。先進国でも、発展途上国でも、いかに事前準備をしていたかで、被災状況が大いに違う。個々人の自立と、コミュニティの自立は最善の再発防止策になっている。地道な自立支援が、やはり答えなのだと思う。

(写真:スリランカ北部ワウニアのJEN現地事務所前で、地域の人々と語らうスタッフのクラシリさん)

(ニュースレターNo39より転載)

2009年10月8日木曜日

スマトラ沖地震の緊急支援開始のお知らせ

今日は、告知です。


●スマトラ沖地震の緊急支援、開始しました!

既に、JENのスタッフ3名が現地に入り、活動しています。

詳しくは、こちらをご覧下さい。

http://jenhp.cocolog-nifty.com/emergency/2009/10/post-86e0.html



緊急募金も受け付けています。

http://www.jen-npo.org/contribute/form01_1.php

よろしくお願い致します。

2009年7月20日月曜日

No.20 国際協力の現場から:触媒のもたらす効果


 支援には、長い時間がかかる。

 JENのリーフレットにも『10年かかる』とあるが、勿論これは比喩で、実際には更に長い年月がかかる。先だってのイタリア、ラクイラでのG8サミットでも、「まだテントに人が住んでいるのか」と驚いた人が多かったと思う。G8主催国でさえこの状況だ。世界の状況は言うに及ばず、支援を求める人の数は余りにも多く、支援は余りにも遅く、足りない。

 自立支援は、単なる物資の提供や建物の建設などよりも更に時間がかかる。当然、支援の効果が上がるスピードが気になる。急がば回れだと判っていても、焦りがないはずがない。

 その焦りを鎮めてくれるのが、現実に出会う自立の効果だ。スリランカの漁協の組合員が「いかに多くの援助をもらうか」ではなく「いかに地元全体によい影響を与えることができるか」を話し合うようになったと聞けば、自立支援の計り知れない効果を実感できる。

 支援の受け手としても、自立支援はもどかしいに違いない。本当は、自分たちが望む場所全てに、さっさと井戸を掘って欲しいと思っているのかもしれない。それでも、スーダンの井戸管理委員会の委員たちはつかんでいるはずだ。井戸の分解と組み立てを実演して見せてくれた時の彼らの顔に、それはしっかりと表れていた。

「この井戸が壊れても、私たちは直せる」。

 つまり、井戸が枯れない限り、この地域の水は自分たちが確保する、という自信だ。自信に満ちた彼らは、次のステップに進むことが出来る。彼らは、近隣の壊れていた井戸を7本も修理して使えるようにしたという。この時に彼らが味わった誇らしい気持ちが、彼らを更に先に進ませることだろう。

 人は、一つのことで自信を持てると、新たなことに挑戦できるのではないか。身の回りの課題に気付き、それを解決できると信じ、自分と仲間の力で一つ一つそれを変えてゆく。成果が上がれば更に前進できる。あとは支援を受けなくても自立の輪が広がってゆく。自信と誇りを取り戻す。自立支援の大切な効果のひとつだ。

(写真:ミャンマー:JENスタッフを出迎えてくれたテーチャウ村の村びと。手に持っている小さな旗は、トイレットペーパーで作ったもの)

(ニュースレターNo.38より転載)

2009年4月20日月曜日

No.19 国際協力の現場から:底力を信じ触媒になる


 先祖代々譲り受けてきた土地を耕し、穏やかで幸せな生活を営んできた人々。紛争や災害でそれらの全てを失い、絶望を味わった彼らが支援の相手だ。過酷な日々をやっとの思いで生き延びたが、家族の安否さえわからない。食べ物は喉を通らず、目もうつろで、ただぼんやりと座っているだけだ。元気そうに振舞っていても、次の瞬間、目に涙を一杯に溜めていたりする。平和に慣れた日本から現地を訪れると、被災者への声のかけ方すらわからない。この仕事を続けるのが辛い、と思う瞬間だ。

 JENが行うのは、こうした人々を支える自立支援であるから、我々にも覚悟が必要だ。彼らの底力を信じきれるかどうかが試されるからだ。たとえか弱く見えたとしても、手を出し過ぎれば援助依存を生む。被災者の底力を信じて、やり過ぎない様に自制することは本当に辛い。
人は一人ひとり、自立する能力を持っている。紛争や災害などによってその能力が発揮できず、自立できない状況にある人が、再び(もしくは初めて)自立できる様に支えるのがJENの自立支援だ。だから、自立を教えるとか、命じるなどは、その対極にある。大切なのは、彼らの底力に対する我々の信頼が、事業を通して伝わっていくことだ。本人たちの自立したいという願いを信頼がそっと後押しすると、如実に効果があらわれるから不思議だ。

 事業が成功するかどうかは、支援を必要としている人々自身にかかっている。落胆の極みにいる彼らが活動に参加し、ほんの少しだけ状況が改善する。すると、参加者はわずかに自信を取り戻す。それによって、状況がもう少し変化する。更に自信を回復する。そのどの場面でも「化学変化」は彼らの中で起こっている。JENが「変化」を提供しているのではない。JENにできることは「化学変化」のきっかけを随所にちりばめた支援事業を計画し、人々に参加してもらうことだけなのだ。だから、JENは触媒だ。「化学変化」は、彼らの中にある。JENという触媒がなくとも起こる可能性は十分にある。それでも、変化が持続する効果的な触媒であるための辛さを、味わうことを嬉しいと思う。

(写真:スリランカ東部バティカロア県にて。言葉に隠された悩みを汲み、いち早いプロジェクトのスタートを目指す。写真中央は、JEN海外事業部次長・平野俊夫)

(ニュースレターNo37より転載)